ある物理エンジニアの日記

とあるエンジニアの回想録・着想録・備忘録

学校の中に暴力があった、1992年のこと

1992年、僕は中学1年生だった。

不思議なことに、この頃の記憶を辿ると、ほとんどコンピュータのことばかりだ。何故だろうと思って、しばらく考えてみた。僕は学校が嫌いだったのだと思う。

 

当時も学校の中には暴力があった。

思春期の暴力は大人が止められるようなものではない。

 

義務教育という狭い空間と時間の中に閉じ込められていれば、暴力があってはならないなんてのはタテマエの話であって、実際には暴力があるのが当たり前だ。

 

思春期の世界の中で、僕らは殴り合うことがあったし、いじめもあった。武器を持つこともあった。人気のないところに連れ出してぼこぼこにする、当たり前だ。

 

中学生の僕たちは人を殺せる程度の力を持っていて、大人から逃げる程度の頭を持っていて、犯罪を犯しても法律で保護されていることも認識していた。その上で、まったく興味も趣味も課されている要求に対する達成度も違う人間が、強制的に狭い場所に閉じ込められたのだった。

 

学校という狭い空間と時間に閉じ込められていたから、追い詰められたらそこで戦うしかなかった。そのとき、敵は少ない方がいいし、味方はいたほうがいい。それだけのことだ。

 

暴力を行使されないためには他人を侮辱しないことだ。イライラしている人間には近づかないことだ。そして、誰かが悪事をしても黙っていることだった。あるいは、誰よりも強くなるしかなかった。心を押し殺していたのだと思う。

 

いじめは誰が悪い、そんな話はどうでもよかった。誰が悪いかなんて関係なく、身の危険はあるし、身の危険から逃れようとすれば沢山の大人に邪魔されるのが、義務教育という仕組みだ。

 

昔は子供だったはずの大人たちの想像力は貧困で、子供たちの世界は別にあるということを忘れてしまう。

 自分の身がそこに置かれるのだから、大人のタテマエなんてどうでもよかった。今もきっとそんなに変わってないと思うし、僕らより前の時代にも暴力があったに違いない。でも、その時代の大人はいつもタテマエを前に持ってくる。

やりすぎ・反復しすぎを減らすためのTODOリスト

TODOリストというのは、やり忘れを防ぐために便利だが、やりすぎを防ぐためにも役に立つと言うことが分かってきた。

 

ネットオークションのチェックとか、ブログのチェックとか、口座のチェックなんてのは、執着してしまうと一日に何度も見てしまったりする。

そういうのって本当に精神と時間の無駄だ。

 

何度もチェックしてしまうのは、たしかに興味があるからだ。そして、毎時間とか、毎日とか、毎週とか、チェックしなければならないのも事実だろう。でも、必要を超えてチェックする必要はないのである。

 

こういうタスクをTODOリストに放り込み、短時間で集中してこなす。そして、決めた次のタイミングまで意識を向けないことにしてしまうのだ。

これって、TODOリストの新しい使い方かもしれない。

ペースを作る

僕はペースを維持するのが苦手だ。

 

全力疾走しようとしてパタンと疲れてしまったり、計画していたことを忘れてしまったりすることが多い。多分、病気なんだろうと思う。だから、休憩時間が異常に長いし、集中している時間はとても短い。

 

今朝、カフェで朝ごはんを食べているとき思ったことがある。

店員さんは、息切れしないようなゆっくりしたペースで、しかし長時間動き続けている。あれができたら、僕も少し生産的になれるんじゃないかと思うのだ。

 

そのために必要なことを整理してみる。

まず最初にペース配分をちゃんと考えることだ。息切れするような速さでやるべきタスクもあるけれど、そんなのはごく一部だ。本当は、持久戦をしなきゃいけないタイミングで瞬発力を発揮しようとしても効率が悪すぎる(知ってる

そしてそういうタスクなら、こなしながら他のことを考えたりおしゃべりしたっていいはずなんだ。

だから、少し考えてみようと思う。10分全力疾走して50分サボるくらいなら、ゆっくり1時間くらいかけて片付ける、という選択肢があるということを、最初に判断しておく必要があるのかもしれない。

これができないと、生活習慣って改善していかない気がする。

しばらくちょっと意識して生活する。

 

 

 

 

 

 

プログラミングの学び方

前回書いたように、僕がはじめてプログラムを書いたのは1992年のことだ。そして、いくつも足かせになる事情があった。自分のPCなんて持っていなかったし、文献資料もほとんどなかった。そしてコンピュータの中身もとっても弱弱しいものだった。

僕は、人にプログラミングを教える方法をほとんど知らない。自分で試行錯誤してある水準を乗り越え、次の水準を超えていったので、人から習うという経験がほとんどない。文献もほとんどなかったので、本から学ぶということもほとんどなかった。

僕の目の前にあったのは、メーカーのマニュアルと、手に入りうるちょっとのソースコードだけだった。まれに本の中にソースを貼っているものがあったのだ。今でも覚えているのは、天文ガイドという雑誌にあった天体位置計算プログラムと、線画で3次元立体を表現する方法を一冊にまとめた本、そしてベーシックマガジンという雑誌にあった月にいくつかのゲームのコードだった。

 

互換性の問題があって、手に入ったほとんどのソースコードはそのまま実行できないものばかりだった。どの部分は動かせるのか、動かないところは一体何を意図しているのか、それを代替する手段はどうやったら実装できるのか、ということをひたすら僕は試していた。

ほとんど何も成果がなくても、世の中にほとんどソフトウェアというものがなかったから、全然苦痛ではなかった。今だったら、こんなものはいくらでも手に入るのに、なんで自分で書くのだろう、という気分になるに違いない。物が手に入らない、他人がやってないというのは、僕にとって幸運なことだった。

近年、義務教育でプログラミングを必修にするとかしないとかいう議論がある。

けれども僕はまったく想像ができない。今の子どもたちにコーディングは必ずしも楽しくないだろうし、ましてや楽しいコーディングを教えられる教師はいないだろう。そして子供たちが大人になったとき、今時のコーディングがそのまま役に立つとは思えない(ほとんど不要になり、絶滅しているだろう)

 

 

役に立たない知識だって意味があるとかいう人もいる。

でも、すぐに役に立たない知識は、他人と違うことを知っているから意味があるのだ。他人とできることが違うから、分業ができるし、価値があるとみなされる。

横並びで学んだって、価値は生じないと思う。

今から10年後に生きるために学ぶなら、英会話とかプログラミングとかじゃないと思う。やるなら、まだ誰も気づいていないことをこっそり始めることだ。それは馬鹿にされているかもしれないけれど、横並びに人がやってることをおいかける馬鹿よりはるかにマトモだろう。

 

 

プログラミングをはじめたとき〜1992年のこと

僕が、プログラミングをはじめたときのことをかく。
1992年の春の事だった。年令は12歳だった。

僕の家は裕福ではなかったし、当時はパソコンはとても高価だった。そのうえなんの役に立つのか知っている人もほとんどいなかった。たまたま僕がコンピュータに触れる機会を得たのは、中学校の一角にそれがあったからだった。

公立学校にありがちだが、唐突に学校に放り込まれた一群のコンピュータはほとんど使われることなく放置されていた。たまたま僕は、そんなコンピュータにアクセスでき、教師もそれを黙認したわけだ。これまた公立学校にありがちだが、ぼくの触ったコンピュータは、FM-Rという富士通の事務用機だった。ほとんど公共施設にばかり売られていたPCで、ただでさえ世の中になったPCの中でもとくにマイナーだった。当時はすでにNECの9801が流行っていたし、富士通でも一般向けにはFM-townsというモデルがはやり始める直前だった。

おかげで、ほとんど資料がなかった。まだインターネットなんて目の前になかったし、田舎の本屋や図書館にはたかだか30冊程度、コンピュータ関連の本が見つかる程度、そのうちのほとんどはまとはずれな内容だった。分厚いマニュアルがほとんど唯一の情報源だったから、僕はそこからあらゆることを試したのだった。

最初に扱ったのは、BASIC、それもF-BASIC86HGというかわったアレンジのされたBASICだ。FM-TOWNSはF-BASIC386だったから、富士通でもさらにマイナーなバージョンのBASICだ。そしてアセンブラマシン語を直接たたく遊びもした。

当時のパソコンのプログラミングは、ハードウェアの限界がとても近いところにあったから、最近の組み込み屋よりよっぽど沢山の小手先テクニックがあったし、片っぱしから試せる程度のリソースしかなかったから、網羅的に試すこともできた。

いまでも僕は機械性能いっぱいを扱うのが好きだし、余裕のあるリソースの中で淡々とコードを書く時間は必要だけどあまり楽しくない。現代のプログラミングの実作業の大半は、拡大する複雑さを思考できる範囲に抑え込む作業だ。そのためのツールは無数にあるし、そのために学ぶべきことも多い。けれども、僕にとって楽しいのはそっちの作業ではない。一応はプロだからこなすけどね。やっぱり僕にとって気持ちいいのは、他人にできないことをみつけることで、知られたテクニックを真面目に使う作業ではない。必要なコーディングの99%が後者だとしてもね。