ある物理エンジニアの日記

とあるエンジニアの回想録・着想録・備忘録

プログラミングの学び方

前回書いたように、僕がはじめてプログラムを書いたのは1992年のことだ。そして、いくつも足かせになる事情があった。自分のPCなんて持っていなかったし、文献資料もほとんどなかった。そしてコンピュータの中身もとっても弱弱しいものだった。

僕は、人にプログラミングを教える方法をほとんど知らない。自分で試行錯誤してある水準を乗り越え、次の水準を超えていったので、人から習うという経験がほとんどない。文献もほとんどなかったので、本から学ぶということもほとんどなかった。

僕の目の前にあったのは、メーカーのマニュアルと、手に入りうるちょっとのソースコードだけだった。まれに本の中にソースを貼っているものがあったのだ。今でも覚えているのは、天文ガイドという雑誌にあった天体位置計算プログラムと、線画で3次元立体を表現する方法を一冊にまとめた本、そしてベーシックマガジンという雑誌にあった月にいくつかのゲームのコードだった。

 

互換性の問題があって、手に入ったほとんどのソースコードはそのまま実行できないものばかりだった。どの部分は動かせるのか、動かないところは一体何を意図しているのか、それを代替する手段はどうやったら実装できるのか、ということをひたすら僕は試していた。

ほとんど何も成果がなくても、世の中にほとんどソフトウェアというものがなかったから、全然苦痛ではなかった。今だったら、こんなものはいくらでも手に入るのに、なんで自分で書くのだろう、という気分になるに違いない。物が手に入らない、他人がやってないというのは、僕にとって幸運なことだった。

近年、義務教育でプログラミングを必修にするとかしないとかいう議論がある。

けれども僕はまったく想像ができない。今の子どもたちにコーディングは必ずしも楽しくないだろうし、ましてや楽しいコーディングを教えられる教師はいないだろう。そして子供たちが大人になったとき、今時のコーディングがそのまま役に立つとは思えない(ほとんど不要になり、絶滅しているだろう)

 

 

役に立たない知識だって意味があるとかいう人もいる。

でも、すぐに役に立たない知識は、他人と違うことを知っているから意味があるのだ。他人とできることが違うから、分業ができるし、価値があるとみなされる。

横並びで学んだって、価値は生じないと思う。

今から10年後に生きるために学ぶなら、英会話とかプログラミングとかじゃないと思う。やるなら、まだ誰も気づいていないことをこっそり始めることだ。それは馬鹿にされているかもしれないけれど、横並びに人がやってることをおいかける馬鹿よりはるかにマトモだろう。